人間、とことん追い込まれると開き直る、ひらき直ると、歌がでるタイプの人種がいるようだ。

項羽と劉邦(下) (新潮文庫)

項羽と劉邦(下) (新潮文庫)

 劉邦はなんど項羽と戦っても負けてしまう。普通なら絶望で身動きがとれなくなってしまうとことろを、歌をうたう、という行為によってどん底の自分を客観視し、またそこから未来が開けることを予感させる。一緒に逃げてきた御者の夏候嬰(かこうえい)と黄河の岸で雲の切れ間に星の光がのぞく夜、言葉をかわす。

「こういうときにはな」
劉邦はまた黙った。なにをいっていいのか、言葉がない。
風が、帆をゆさぶって鳴った。
「唄だ」
唄はこういうときのためにあるのだ、と劉邦はいった。嬰よ、うたえ。
嬰は風にむかってうたった。
泗水の湖に住む漁夫の唄であった。
・・・・
風のないときは風をおこせという。風が帆にさからう時は帆に順(したが)えと頼む。うたはときに嘯(うそぶ)くようであり、ときに風伯の機嫌をとって躁(はしゃ)ぐようでもあり、さらには風伯を恫喝して波間をふるわせるように咆えるのである。

この小説の中で、司馬遼太郎劉邦のことを、とてつもなく巨大な袋のようなものだとなんどか繰り返している。空虚であるが故に、仕えるものたちが、必死で工夫し、考え抜いて、その結果、負けても負けても漢の王として、人心をつかんで、また何度も立ち上がっていく。黄河岸で唄うこのうたは、夜の闇の中、風にむかい、天と一体になった劉邦の、再起の楽章の静かなはじまりのように思える。
項羽は、人並みはずれた体格を持ち、気力も充実、総てにおいて自らが先頭にたって次々と敵を倒していく。それにくらべると、このシーンですら、部下に唄をうたわせている劉邦というのは、一人ではなにもできないろくでなしにも見える。しかし、謙虚な空虚だからこそ、それぞれの分野で突出した人材を抱え、自分はみこしの上に載っているだけなのに天下が自分のところにたぐりよせられてくるという稀有で不思議な存在なのだろう。

小説の終段にくると、これと対比的に、項羽は追い詰められていく。

やがて乙夜(いつや、夜9時から11時まで)が過ぎるころ、眠りが浅くなった。
遠くで風が樹木を鳴らしている。風か、と思ったが軍勢のざわめきのようでもあった。
(あれは、楚歌ではないか)
項羽は跳ね起きた。武装をして城楼にのぼってみると、地に満ちた篝火が、そのまま満天の星につらなっている。歌は、この場内の者がうたっているのではなく、すべて城外の野から湧きあがっているのである。・・・ 楚の音律は悲しく、ときにむせぶようであり、ときに怨(えん)ずるようで、それを聴けばだれの耳にも楚歌であることがわかる。
しかも四面ことごとく楚歌であった。

数十万人という包囲網のなかで、小さな城に篭城し活路を見出そうとするが、自らの故郷である楚の歌が包囲軍から聞こえてくるに及んで、命運尽きたことを悟る。
読んでいると、つい目を閉じて、楚歌を想像し、聞こえない音が頭の中をめぐるのを、ただ受け入れてしまう。