一民族発言について


各社報道によると、

麻生総務相は15日、福岡県太宰府市九州国立博物館(九博)であった開館記念式典の来賓祝辞で、「一文化、一文明、一民族、一言語の国は日本のほかにはない

ということを堂々と述べたそうだ。
一民族発言は、以前、中曽根元首相も同じことを言って、アイヌからの非難を受けたという話もあるから、自民党の議員の結構多くが思っていることなのだろう。

しかし、文化が一つとか民族が同じというのが、なんで誇らしいのだろう?少なくとも第二次大戦後の現代社会において、経済や社会の発展の原動力は多様性であり、それを最も象徴的にあらわしているのが米国(自民党がべったりの)なのは誰が見てもわかることだろう。シリコンバレーに行けば、最先端のイノベーションは中国人やインド人、東欧からの移民などが多くを担っているのがわかる。そもそも米国は移民国家であり、他民族多宗教多言語がかの世界最強国の基本なのだ。

明治維新からはじまる「欧米に追いつけ追い越せ」を実現するために、国民が同質、同根であることを統一教育によって植え付け、均質で勤勉な働き蜂を大量に作りだした。これが他国から見て「奇跡」ともいえる驚異的な発展を実現したことは事実であろう。しかし、それが、すくなくとも現在、あるいは、これからは通用しないということを痛いほど悟らされたのがバブル崩壊ではなかったのか。
既に、地方の工業都市の多くは、ブラジル人をはじめとする海外からの出稼ぎ労働者なしでは成り立たず、日本の国内製造業は、いまや多国籍化によって競争力をかろうじて維持している。サッカーだって、優秀なブラジル人が日本に帰化することでナショナルチームは強くなったし、相撲も外国出身力士の活躍がなければとっくに衰退していただろう。

言語に関しては、日本人が共通語である英語が話せないことでどんなに国際社会で損しているかはかりしれない。一つの言語(実際には日本国籍をもっていても日本語がうまく話せない人はいくらでもいる)であることを自慢する意味はない。そもそも日本語は北や南や大陸や半島から渡ってきた人たちの混沌としたなかから生まれたものであろうし、漢字・かなをもつ、表意・表音文字の混合体という、素晴らしい言語体系自体が「単一」の強調よりも、内包する多様性を誇った方が良いと思う。

活力は多様性から生まれる。私はそう考えている。