大村益次郎がのぞんだのは?
前述の「花神」の中で
- 作者: 司馬遼太郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1976/09/01
- メディア: 文庫
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「維新は癸丑(嘉永六年)いらい、無数の有志の屍のうえに出できたった。しかしながら最後に出てきた一人の大村がもし出なかったとすれば、おそらく成就はむずかしかったにちがいない」
吉田松陰や高杉晋作、坂本龍馬や中岡慎太郎ら非業に倒れた志士たちはもちろん、維新を生き残った木戸孝允や西郷隆盛らも含めて、江戸三百年体制をひっくり返すことに決定的な貢献をしたが、仕上げ職人として、技術者として大村益次郎(村田蔵六)が果たした役割はそれに劣らずおおきかったということだろう。
武家社会の藩貴族である晋作や、新興商業階級と虐げられた下級武士を二重に背負った龍馬のような存在とことなり、百姓医である大村が蘭学と軍事技術を携えて革命の仕上げを行っていった、というのは注目していいと思う。
身分は、百姓である。この百姓味分であることが、蔵六がやがて入る知識人社会でのかれのつらさになるのだが、生涯そのつらさを口に出したことがない。考えてみればかれは後年、長州藩の総司令官として幕軍と決戦するのだが、いかに革命期であるとはいえ、百姓身分上がりのモノが、そんなだいそれた地位につくようなことは希有に属する。
彼の寡黙、朴訥は、持って生まれた性格であるだけでなく、なにを言っても「六反百姓が」と陰口をたたかれることがわかっていて、あえて口をつぐんでいたことも多いように思う。ただ、百姓医の出身だからこそ、身分制や既得権を廃し、最も合理的な軍制を強引にでも導入することができたということはいえそうだ。
また、彼の戦闘法には、人(民百姓)にたいする優しさが感じられる。幕長戦争、石州口の戦いでの地元民に対する接し方もそうだし、まだ江戸入城した官軍が支配権を確立できない不安定な状況のなかで行われた上野寛永寺にこもる彰義隊への攻撃の際もそうだった。
きわめて解きがたい数学のようにむずかしいことは、江戸に戦火をおよぼすことなくかれらのみを覆滅してしまう方法であった。蔵六は船中この一事のみを考えていた
そのために、過去の江戸の大火の原因や状況を子細に調べ、攻撃の日時も雨を考慮して決定する。さらに、一見、殺傷能力が高く非人間的とも考えられるアームストロング砲をはじめて地上戦に使うことで、戦闘を短時間に押さえ、一般市民を巻き込むことを最小限にしようと工夫している。
技術は出自を差別せず思想の違いも問わない。この一点をもって、医術であれ、造船や機械であれ、軍事であれ展開していったことが、近代日本を生む原動力になっているのだろう。それを司馬遼太郎はつぎのような表現であらわしている。
蔵六には狂気はない。蔵六に存在しているのは、その幾何学的ともいうべき論理性であり、その論理が裁断しつつある現実分析だけである。蔵六はその腹中の機械の旋回によって
かならず長州は幕軍に勝つ。
という戦略観を確立していた。
かれは他の長州人や他の志士たちのように、美的にもしくは思想的に、あるいは気分的に、さらにいえば精神の作業として、
「幕府は倒すべきである。べきであるがために起きあがるのである」
といったようなところは、みじんもなかった。
国内革命を遂行し仕上げをし、最後は、暗殺にたおれた大村益次郎。侵略戦争を推し進めた戦犯まで奉っている靖国の参道に自分が立つことを望んでいたとはとても思えないのは私だけだろうか。