最近の小泉首相の、中韓への問答無用的な態度と、一方での異常な対米追従の外交姿勢を見るにつけ、日本は外交下手だな、と思ってしまう。
確かに江戸300年の鎖国を思い起こせば外交が下手なのはある意味当然かもしれないが、近代化の歴史のなかでは、しっかりした外交が行われていた、というのは改めて思い起こす必要があるように思う。

作家の吉村昭が、あとがきで日露戦争の講話成立は「明治維新と太平洋戦争を結ぶ歴史の分水嶺であること」を知り、外相小村寿太郎を主人公に「ポーツマスの旗」を書いたと述べている。

ポーツマスの旗 (新潮文庫)

ポーツマスの旗 (新潮文庫)

ポーツマスは小村の卒業したハーバード大学のあるボストン北方の海岸にある閑静な避暑地である。清国駐在時代につけられたネズミ公使(rat minister)というあだ名を持つ150センチに満たない小柄の小村外相は全権として、ポーツマスに向かう。

世論は、連戦連勝の当然の結果として多額の賠償金とロシア領土の割譲を要求している。が、国力はすでに尽き、それに気づいているロシア側は講和会議で強い姿勢をしめすはずで、国民が求めているような講和条件を受諾させることは不可能に違いなかった。

という状況の中で、あえて火中の栗を拾いに会談に臨む。相手は、国際的に評価の高い「ウィッテ」。ロシアはといえば、血の日曜日事件に代表される民衆の不満の高まり、世界に冠たるバルチック艦隊日本海海戦での壊滅的敗北などで、社会不安は広がるが、一方でロシア皇帝は強圧的な政策を放棄しようともしない。

小村は、欧米ことにヨーロッパ各国の外交に長い歴史の重みを感じていた。国境をを接するそれらの国々では、常に外交は戦争と表裏一体の関係にある。....
日本の外交姿勢はどのようなものであるべきかを小村は常に考え続けてきた。結論は一つしかなかった。歴史の浅い日本の外交は誠実さを基本方針として貫くことだ。

日本の要求12条の内、多くはロシアとしても受け入れ可能なものだったが、樺太の割譲と賠償金の支払いは、皇帝ニコライ二世の強い主張
「一握りの地も一ルーブルの金も日本に与えてはならぬ」
がネックになり、交渉は決裂寸前となる。
随員たちの間での評価では

「小村は冷静に、しかも的確な判断を瞬間的にくだす外交の天才と称されていた。...小村の発言は論理に徹し、少しの失言もない。それにくらべて、ウィッテはロシア人らしい強靱な粘りをみせたが、感情的で時には落ち着きを失う傾向があった」

何度も、もはやここまで、という窮地に追い込まれながらも、小村もウィッテも外交での解決を目指し本国と必死のやりとりを行う。最後に、日本政府は代償金と樺太割譲の放棄まで大譲歩をし、ロシア皇帝は、南樺太の割譲を決断する。ルーズベルトは間に立って交渉をまとめることでリーダーシップを獲得しようとするが、最後の最後で日ロ双方の交渉カードが明らかになると

小村は一読し、高平に渡した。意外であった。.....ロシア皇帝は極東平和の回復のため樺太南半分の譲渡に同意する、とある。....かれは、全身の関節がゆるんだような深い安堵を感じた。
...読み終わったウィッテが、覚え書きに視線を落としているローゼンに顔を向けた。その眼には、あきらかに喚起の色がうかびでていた。

遂に交渉は成立、両国とも、これ以上の戦争の泥沼にはまりこむことを避けることができた。小村の毅然とした態度、冷静で常に大局を忘れない判断力、ロシアだけでなく米国やドイツ、清などの各国の利害を常に頭に入れながらの交渉術。どれをとっても今の日本の外交から欠落してしまったものである。

予想通り、小村の輝かしい成果は国民からは非難囂々、大騒擾が起きてしまう。国民が正しい情報を知らされてなかったことが主な原因であるが、自分が非難の矢面に立たされることを承知していた小村は、非難の声も甘んじて受け止める。

新潮社文庫版の解説を書いた粕谷一希氏に言わせれば

小村寿太郎という存在は、日本の近代政治史、近代外交上の頂点にある存在といっても過言ではない。.....日露戦争を終えてからの日本は、もはやそれまでのみごとな国家意志、国家理性を形成することなく、破局への道を歩む。民衆に石を投げられるなかで自己抑制に生きた小村と明治国家は崩壊し、松岡洋右のような派手なスタンドプレーヤーが昭和国家に出現していったことも、きわめて対照的である」

背が低く見映えのしない小村は、明治の日本人を象徴するような存在である。地方の小藩から出て、苦学し、ハーバードに留学。非白人に対する蔑視、キリスト教世界以外を蛮族とみる風潮のなか、世界の中における日本を感じ、学び、死を賭して日本外交を実践していく。
こうした大先輩の遺産を、どうも我々は忘れ去り、ないがしろにしてしまっているような気がする。

今一度、世界における日本と日本人を考え直してみたい、と思う今日この頃である。