パソコンは役に立つか

アップルのiMac G5欲しい!キャンペーンの案内を見て、Macが役に立ったのかどうか思い出してみた。
Macというのは、起動の際のにっこりMacからシステムエラーの時のサッドMacまで、顔のあるコンピューターという感じがしていた。子供がまだ小さかった頃、なかなか言葉が出なくて、ハイパーカードベースの幼児向け言語習得プログラムを手に入れては試してみた。そうした中で、徐々に言葉を獲得していく子供をみるにつけ、コンピューターはツールではなく、成長のパートナーになるなぁ、、と思った。
つい先週、MITが100ドルで電気もいらないコンピューターを開発したというニュースを聞いた。Macというか、今のパーソナルコンピューターの原点を提案したアランケイの夢がついにかなう時代がきたということか。アフリカやアジアで電気もないところでパソコンだけあってどうする、そんなものより食料と医療だ、というのは十分わかりながら、でも世界中の子供たちがごく自然にパソコンを使ってコミュニケートできるようになるといいなぁ、、とおもってしまう。

急に寒くなってきました


北の丸公園を散歩していると、落ち葉の音がさくさく、さくさく。


アップルのiMac G5欲しい!

キャンペーンをやっているそうで。欲しいなぁ。
半年ほど前に、5年ぶりくらいにMacMac mini)を買ったんだけど、iDVDを使って昔のビデオを少しずつキャプチャーしたり編集していると、やはり、ちゃんと早くて新しいMACが欲しくなってしまう。十数年前のMacSE以来、5台くらいMACで通したんだけど、Winに変えてからは長い中断でした。もらったら、しっかり編集するぞ!なんてね。
とにかくiMac G5欲しい!
ですね。

最近 iPOD nanoが通勤時のラジオと化しています。
BBCのGoDigitalというPODCAST番組があり、最近のインタビューでTim O'Reilly がオープンソースWeb2.0について語っていました。彼は、時代の流れを価値のある場所の変化という軸で説明していてとても興味深かったです。


  IBMはその昔コンピューター業界を支配していた
  ところがIBM自らがPCをコモディティ化してしまった

  そこで、それまでIBM固有のハード・ソフトにあった価値
  が誰でも調達可能なものになり、価値はソフト(OS、アプリ)
  に移っていった。

  Bill Gatesがやってきて、この価値をがっぽりもらって世界
  一の金持ちになった。

  ところが、Linuxに代表されるオープンソースが世の中を再度
  変えようとしている。ソフトウェアもコモディティ化しており
  (その典型が無償提供されるOSやアプリ)タダで利用できるOS
  を利用して、アマゾンやGoogleは(低コストのインフラで)
  新しいビジネスを展開している。

  つまり、価値はOSなどのソフトウェアからサービスに移行している。


現実を見ると、悲しいくらいにMicrosoftの支配が続いており、果たしていつか終焉を迎えるのだろうか、という風にも思えるが、既に次の世代の鼓動は響きはじめているということですね。

先日、Open Office2.0 をインストールして使ってみたら、びっくりするぐらい良くなっていました。「これなら使える」、会社の業務のようにツールまで標準化されている場合は乗り換えは簡単ではないけど、個人のPCでは高いMSのライセンスを買う必要なんかなくなるな、と実感した次第です。

東京新聞によると

政府は五日、在沖縄海兵隊の七千人削減で米政府と合意したことに伴い、日本側の負担でグアムに司令部や隊員宿舎などを整備するための新法を制定する方針を固めた。
...
 移転経費は、厚木基地(神奈川県)の艦載機部隊の岩国基地への移転なども含めて全体で三千億円程度と推計される。

というのだが、なんでアメリカ軍が自国の軍事基地を自国の領土内で作るのに日本が金をはらわねばならないのか。というか、それが政治問題にも話題にもならないのはなんなんだろう?

3千億円といえば、22億ドルと言われる北朝鮮の年間軍事費の総額よりも大きい予算である。普天間の移設費もそうだが、日本人の経済感覚は狂ってないか?
軍事的に属国になるよりも、経済による貢献や、地球環境のための技術開発により世界貢献などのほうが人類のためになる、というかなにより自分たち自身のためになる、って思わないのですかねぇ、、、、。

インストルメンタルというのは、なかなか商売にはならないんだけど、たまたま行ったライブで、これは、というものに出会った。

しの笛(篠笛)奏者の狩野泰一かのう・やすかず)さん。


ドラマーだったのにニューヨークに渡ってから変身、日本に帰って

佐渡島に暮らしながら日本古来の「篠笛」の可能性を広げ、自然でここちよい笛の音楽を産み出して独自の狩野ワールドを展開している

(ホームページの自己紹介より)

小さな笛からは想像できないようなパワフルで繊細で、しみ通るような音がでてくる。尺八よりももっとストレートに入ってくる感じ。

   

stirring echo

stirring echo

これは他のインストもはいったコンピレーション。
ソロアルバムFish Dance もある、まだ聞いてないけど期待できそう。


自民党憲法改正草案を発表した。

予想通りではあるが、戦争をすること、国民を治安維持の名の下に縛り上げることを可能にする腹の立つ草案である。

第九条【戦争放棄、軍備及び交戦権の否認】
1.日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2.前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

シンプルだが、これこそが戦後60年間、平和を保ち、近隣の諸国を侵略もせず、経済的には奇跡の繁栄を実現した源なのだ。自民党のお歴々は、そもそも太平洋戦争を侵略戦争とも間違った戦争とも思ってないようなので、こういう案を出すことも無理もないが、それを多くの国民が支持している、というのはどういうことなんだろう?
「9条1項を堅持します」というのは詭弁だが、マスコミも、そのまま報道しているので、注意してないと「ああ、自民党も戦争はしないつもりなのね、よかったわ」と賛成票を投じてしまいそうだ。第2項の再軍備をせず、交戦権を放棄する、という項目を削除するということは、まさに「戦争しまっせ」ということなのに、、、

それにしても前文の格調の無さはなんなのだろう。事務的に、国民の「国を守る義務」を強調する、まさに治安維持法的国家感が見え見え。
あらためて、現行憲法を読んでみた。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。
.....
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。


これは、敗戦国日本の宣言というよりは、何千万人という人々が殺された世界大戦の廃墟から立ち上がった人類の平和宣言のように読める。まさに、そういう気持ちで新憲法を我々の先祖・先輩は作り、守ったのだと思う。そこには「押しつけ憲法」とか「翻訳憲法」と非難されるような違和感はなにもなく、むしろすがすがしいまでの平和へのまっすぐな決意と願いがみなぎっている。
だいたいが明治の大日本帝国憲法は欧州の憲法の切り貼りと言えるし、そもそも日本の歴史は、古くは中国、近代以降は欧米先進国からの文化文明を輸入し、それを咀嚼し、自らのものにしてきたわけで、なにもないところからふわっとわきあがったものなどないだろう。良いものはいい。しかも、これだけ崇高な理念を高らかに宣言した晴れがましい前文を誇りに思うべきではないだろうか。